私がこの映画を観て最初に感じたのは、曾根崎雅人という人物を通して、自分が普段感じないままに過ごしてしまっている空間とは異質の空間が感じられ、それがとてつもなく気持ち悪かったことでした。
しかし同時にそれは、自分たちが慣れ親しんだ社会を故意にぶっこわしたかった意図を持った映画なのではないかと察しました。
わたしは、前述したように、映画に入っていく毎に途中吐き気をおぼえるほどの違和感をおぼえました。1995年に起きた5件の連続絞殺事件の犯人とされる曾根崎雅人があらわれそしてメディアに取り上げられる。現実社会ではありそうもない出来事が起きている事、しかしそれは実際に起こりうる事でもあるというところが妙にリアリティを感じさせてしまっていて、つい物語の中に入り込んでいました。
私が真っ先に考えたことは、メディアに登場した曾根崎雅人を目の当たりにした被害者家族はいったいどんな心境だったのだろうかという事でした。それを映画ではありありと表現していたように思うが、法を犯したものが法に守られる異常事態に被害者遺族に共感してしまった私はそれを許容できるほどの知識はなく、ものすごく気分を悪くしました。
それと、曾根崎雅人に感じた事はまさに社会という法の中にいるわたしたちとは違う、その外の世界にいる住人であるということにあると思いました。
この映画の登場人物でキーとなる人物は皆一様に、社会からはみ出した、社会の外にいる人間だった。牧村航の妹の牧村里香は阪神大震災でPTSDを患い社会生活を営むことが困難になってしまっていたし、彼女を慕う小野寺拓巳もビルから飛び降り、一命を取り留めるも整形をほどこし別人へと生まれ変わる。ここでは小野寺拓巳は一度死んでしまっている。
劇中で本人も言っていたとおり、小野寺拓巳という人間は確かに死んでしまって、新たに生まれた曾根崎雅人と言う人物は言わばこの世の人ではなく、亡霊のように社会の外側にいる人間になってしまったのだ。そう思いました。
仙堂俊雄も、テレビキャスターを務めるも、20年前に戦地で友を目の前で絞殺された後遺症からか、その姿は五件の連続殺人犯の犯人であり、自分がされた様に、親しい者の目の前でその身内を絞殺し、それをビデオに記録しているという精神異常者である。彼もまた、社会では生きられない人間であり他の二人と同じように幽霊のようにこの社会をさまよっているように感じられました。
結末では、ハッピーエンドのように終わったかに見えたが、曾根崎雅人のままの小野寺拓巳はやはり、この社会では生きていくことは出来ないらしく、どこかは旅だって行ってしまった。
しかし、それはこの社会で普段生きている私達へのアンチテーゼとして強く訴えられ、そして気付かされた。そんな気がしました。
それはどちらが良いとも言えないのではないだろうか。社会に順応していく私達が良いのか、順応を退ける、例えば精神障害を持つ人たちの方がそもそも正常なのか。順応していった先にはこの映画を視る前のわたしのように、今の社会に染まってしまい、流れに流されるままの操り人形のようになってしまっているのではないだろうか。
ここまで書いていることは結構重たい感じですが、わたしにはそんなテーマをこの映画に感じてしまいました。